731部隊について
これがあったあってないについて、過去に調べたことがあるのだが忘れた。
再度調べたことをメモする
まずはWikipediaから
https://ja.wikipedia.org/wiki/731部隊
○概要
第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。
防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。
人体実験ソースとして七三一部隊元隊員証言記録、証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡、七三一部隊 生物兵器犯罪の真実
生物兵器の実践的使用のソースとして、昭和史の謎を追う (上)、七三一部隊 生物兵器犯罪の真実
が挙げられている。
○沿革
1928年~1930年 石井はドイツなどヨーロッパ各地やアメリカ合衆国などを視察・研究にまわり、帰国後に生物兵器の有用性を陸軍上層部に訴える
1932年(昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設
1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始
1936年(昭和11年)4月23日、「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案
1936年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足、この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成
1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人
1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行う
防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣、最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げ
第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功章が贈られた。
実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある
1940年平房(ハルビン南方24km)に新施設が完成
1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)」に改編そのうちの本部が「関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)」
1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた
1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めた
1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)
1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は日本本土方面への撤退
1945年(昭和20年)8月10日 大本営参謀だった朝枝繁春はに満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示
この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された
>1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めた
・シェルダン・ハリス…ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと主張
・常石敬一…ペスト流行については、日本軍による自作自演説には確かな証拠がなく、疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病
・元731部隊の金子順一軍医…1940年の新京や農安でのペストの大流行も、731部隊の細菌散布によってもたらされたことを示す論文が発見
※ソースは「731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告―石井機関の枢要金子軍医の論文集発見」
○生物兵器
1925年のジュネーヴ議定書 生物兵器の「使用」を禁止する(日本は締結に署名したが批准せず)
また、そもそも同条約では、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかった。
○人体実験
731部隊では、生物兵器の開発や治療法の研究などの目的で、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていた。石井四郎自身、医学研究において「内地でできないこと」があり、それを実行するために作ったのがハルビンの研究施設であった、と戦後に語っており、この「(日本)内地でできないこと」とは主に人体実験を指していると考えられる
人体実験の被験者とされたのは主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ソ連人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称されていた。マルタの中には、一般市民、女性(中国人女性やソ連人女性など)や、子供(モンゴル人少年やソ連人少女など)が多数含まれていただけでなく、731部隊の少年隊員も人体実験の犠牲になった。これは、731部隊が性別、年齢層、人種を超えた、幅広い実験データを必要としたためであると考えられるが、女性マルタは主に性病治療実験の材料になったという
マルタにはペスト、コレラ、チフス、赤痢、梅毒スピロヘータなどの生菌を注射する細菌学的な人体実験が頻繁に行われた。通常、人体実験とは生体解剖を意味し、マルタは生きたまま解剖された。これは、被験者が死亡してしまうと人体に雑菌が入るため、マルタが瀕死の重症で、人体に雑菌が入らないうちに解剖して臓器などを取り出す必要があったからである
○米ソによる人体実験データの奪い合い
石井は連合国軍による戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらました
ソ連は、731部隊柄沢(からさわ)班班長であった、抑留中の柄沢十三夫少佐を厳しく尋問し、アメリカやイギリスなどが把握していなかった、中華民国や満州国での細菌戦と人体実験に関する証言を聞き出すことに成功
731部隊の編成と責任者、研究内容、設備、人体実験の事実、中華民国での細菌兵器使用などについて詳細にわたり供述しただけでなく、寧波と常徳で行われたペストノミ攻撃の事実を認め、総指揮者が石井四郎であったと証言した
さらに、柄沢の上司だった川島清軍医少将(731部隊第4部長)も、飛行機によるペストノミの散布、ペストノミの入った陶磁器製爆弾の投下、天皇の命令書、部隊の資金と出資、マルタの供給と受領の仕組みなどについて供述している
1946年2月10日にアメリカ政府に「石井たちをソ連に尋問させるべきかどうか」について打電
1946年3月20日、アメリカ政府は「アメリカ人の専門家に石井たちを尋問させ、重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答し、人体実験データのアメリカによる独占を図った
1947年の5月石井は、「私は技術的データを渡すわけにはいかない。詳細などは知らん。知っていたことも忘れてしまった。すべての記録は破棄された」と語る一方で、「もし、あなた方が私自身と上官、部下宛に文書で免責を保証するなら、すべての情報を提供できる」とフェルに取引を申し出る
- 鎌倉会議で取り交わされた9ヵ条の密約 ---
この秘密調査報告書の閲覧はフェル博士、マックェール中佐、および吉橋通訳とGHQのアメリカ人、そして石井と約20名の研究者のみに限定されている。
日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる。
報告はロシア人に対しては全く秘密にされ、アメリカ人のみに提供される。
ソ連の訴追及びそのような(戦犯を問う)行動に対しては、絶対的な保護を受けるものである。
報告書は一般に公表されない。
研究者はアメリカ合衆国の保護下にあるという事実が明らかにされないよう注意が払われる。
主要な研究者は米国へ行くことを許可される。
細菌戦実験室が作られ、必要な経費が支給される。しかし、アメリカ人実験室長の下に行われる日本人研究者との共同研究はさらに考慮される。研究に基づく特別実験が予定される。
アメリカ人だけによる全面的な共同研究は日本の問題に良い影響を与える。アメリカ人とこれらの条件を決定するに当たり、8以外はすべてアメリカ人の一般的意図に基づく。
--- 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』新潮社 2008年、428頁
a. 日本の生物戦研究の情報はアメリカの生物戦研究プログラムにとって大きな価値があるだろう。
b.【略】
c. アメリカにとって日本の生物戦データの価値は国家の安全にとって非常に重要で、「戦犯」訴追よりはるかに重要である。
d. 国家の安全のためには、日本の生物戦専門家を「戦犯」裁判にかけて、その情報を他国が入手できるようにすることは、得策ではない。
e. 日本人から得られた生物戦の情報は情報チャンネルに留め置くべきであり、「戦犯」の証拠として使用すべきではない。
--- State-War-Navy Coordinating Subcommittee for the Far East 1947. 常石編訳 1984年、416頁
これが省略したWikipediaの内容
しっかりソースも記載されており、ありえるかありえなさそうか考えた時には十分ありえると思う。
ソースは大きくこの3つから出ているものがほとんど
ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」1997年
常石敬一「七三一部隊 生物兵器犯罪の真実」1995年
秦郁彦 「昭和史の謎を追う (上)」1999年
ついでに指示等の細かい指示が出ていたとする文献
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/doshisha/1-11.html
さて、反論文章を覗く
悪魔の飽食に対する反論
http://soumoukukki.at.webry.info/200802/article_26.html
小説家・森村誠一の『悪魔の飽食』にて騒がれた
この本に掲載された写真の大半は、石井部隊とは無関係な写真を無理やり関連付けたものであることが各方面からの指摘で発覚。写真の説明にも、医学的な根拠と整合性に欠けた記述で占められ、その後、森村氏は修正版(“続刊”)を出版。
しかし、“石井731部隊の元隊員”であったとする人物から提供されたとする写真を、新発見とうたって“続刊”に掲載したところ、そのほとんどが偽造写真であることが判明。この問題により光文社版は続刊を含むすべての版の回収を余儀なくされ、これも絶版となった。その後、問題写真を削除した上で、角川書店より新たに出版した。
1.内容に登場する人物はすべて匿名
2.森村氏が引用する登場人物の“証言”が版を追うごとに異なっている。
3.事の真相に関し、「石井731部隊に関する資料を米国が回収し、公開していないため検証不能」とする弁明には状況的な無理がある。(旧満州国の検閲を実施した当事者は米国ではなく、旧ソ連であり中国であった)。
4.戦後に関係者から証言を引き出したとするハバロフスク裁判自体が、法学者によってその存在を否定されている。
5.この本は、日本共産党の機関紙・赤旗(日曜版)における連載から生まれ、日本共産党の協力のもとに出版された経緯を鑑みれば、“事実”よりプロパガンダの性格が強い。
6.筆者の遠縁と知人2名が(医学博士と法学者)が旧満州に渡航し、実際に石井731部隊を訪れている。くまなく現地を視察しているにもかかわらず、しかし、森村誠一氏が記述した如くの人体実験設備、そのためのマルタ(捕虜)収容所、毒ガス、細菌兵器に関する研究施設は存在していなかった。
731部隊の実験写真への反論
http://www.asyura2.com/12/hihyo13/msg/900.html
旧日本軍「細菌戦研究」 米が機密文書公開
http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/2bd852e3cc16c0c6cfa656106a65224b
この公開された資料には
この時、石井四郎中将を始めとする731部隊関係者の個別尋問記録や、石井中将が細菌戦研究の成果を1947年6月ごろ執筆し米軍に引き渡したことを裏付ける最高機密文書も明らかになった。
ところが、731部隊(関東軍防疫給水部)は細菌戦研究はしていたものの、細菌戦や生体実験を行った証拠は全くなかった。
文書内容の大半は731部隊など細菌戦研究に関する内容だった。
ナチス・ドイツと日本の「戦争犯罪」を調査するため、クリントン政権当時の99年に構成された記録作業部会(IWG)は、「慰安婦問題」などの悪事を裏付ける文書も探したが、証拠は見つからなかった。
奉天(瀋陽)の収容施設で、連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかを調べたり、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないかを調べたりしたが、「当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も公開された。
つまり、アメリカが持っていた731部隊に関する10万ページの機密文書には、731部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った証拠は全くなく、戦後に言われたことは全て嘘っぱちのでっち上げだったのだ。
731部隊の人体実験・細菌戦は嘘(全て作り話)
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/13578503.html
どちらもソースにキーマン文章の反証がないので、キーマンが何者か調べてみることにする。
「常石敬一」で調べると一番目につくのが地下鉄サリン事件らしい。
http://www.tv-naruto.ne.jp/gregarina/H1E.html
どうやら河野義行氏が長期間容疑者にされる一因を作ったらしい。うーむこれだけではよくわからない。
内容はまだ詳しくみてないが、細かいソースがありそうなのでメモ
http://tsunesan.blogspot.jp/2006_09_01_archive.html
二つの731部隊
http://meinesache.seesaa.net/article/6073627.html
なるほどイメージの731と実際の731を想定して話す必要があるという話。
下のソースが読めなかったので家に帰ってから読む。
他参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/感染症の歴史
1855年 中国 雲南省 腺ペスト
1894年 中国 香港 腺ペスト→1896年横浜入港した中国船員が死亡
1899年 11月、台湾から門司港へ帰国した日本人会社員が広島で発病し死亡
1899年は45人のペスト患者が発生し、40人が死亡(日本)
1910年 清朝末期の満州で肺ペスト
1994年 インドペスト
1960年代 ベトナムペスト
と当時はそこまで珍しいものではない。
疲れたので今日はここまで
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