2015年12月25日金曜日

1977年 『吉田証言』

1977年 『吉田証言』※朝鮮半島で日本軍による「慰安婦狩り」があった。
慰安婦問題を調べたことのある人なら吉田証言というのは有名な話であるが、
ソースともう一つ「吉田」とは何者か?というところを探っていく。

○吉田証言のソースは?
まず「吉田証言」という書類は存在しないようだ(発見できていないのかもしれないが)
1982年以降、吉田は戦時中に済州島などでアフリカの奴隷狩りのように若い朝鮮人女性を軍令で捕獲・拉致し、強制連行したと著書や新聞や講演などで語ったことを吉田証言と言うようだ。吉田清治の「自白」本、『私の戦争犯罪』というものがあるらしく、
島田洋一氏のブログに107頁が載っていたのでそれを記載する。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201411/19/03/b0319003_01250283.jpg
”私は直ちに部落内の女の借り出しを命じた。路地に沿って石塀を張りめぐらせた民家は戸がしまっていて、木剣を持った隊員と、銃を持った兵隊が戸をあけて踏み込んで女を捜しはじめた。私が石塀の上によじのぼって見渡すと、前方の大きな民家に女がニ、三十人集まっていた。若い娘が年取った女と、板の間や縁側に一列に並んで坐り、馬の尾で編む円筒形の朝鮮帽子を作っていた。私が合図すると、隊員と兵隊たちが駆けだして行って、その民家へいっせいに突入した。
女の悲鳴があがり、隊員と兵隊のどなり声が聞こえはじめると、静まりかえっていた近くの民家から、男たちがとびだしてきて路地を走り、銃吸う人の男たちがその民家の石塀の中に集まって騒ぎだした。隊員や兵隊たちは二人一組になって、泣き叫ぶ女を両側から囲んで、腕をつかんでつぎつぎに路地へ引きずりだしてきた。若い娘ばかり八人捕えていた。男たちが大声を上げて、朝鮮語で騒ぎ立てた。”引用ここまで

しかし、この件については別途調査があり、
済州島の新聞「済州新聞」が追跡調査で当時そうした「慰安婦狩り」を住民が聞いた事がないという証言を得て吉田証言は事実ではないと報道。(「済州新聞」(1989年8月14日付))
http://blogs.yahoo.co.jp/jphrb866/24193441.html

その後、秦郁彦らも追跡調査を行い、同様の結論にいたった。また吉見義明も吉田本人から創作を交えたことを聞いたため、吉田証言は資料としては用いることができないと確認した
産経新聞では、吉田自身はすでに平成8年(1996年)の週刊新潮(5月2・9日合併号)のインタビューで「本に真実を書いても何の利益もない」「事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやっている」と捏造(ねつぞう)を認めていた。
http://www.sankei.com/politics/news/140908/plt1409080016-n2.html

秦郁彦・吉見義明については確証のようなものが見つけられなかった。
後日探す


○吉田清治とは何者なのか
同じく産経新聞によると、

http://www.sankei.com/politics/news/140908/plt1409080016-n1.html
吉田の経歴もまた謎に包まれている。
吉田清治の名はペンネームで、本名は吉田雄兎(ゆうと)。他に別名として東司、栄司を名乗っている。吉田の著書で山口県と記されている本籍地も、実は福岡県だった。門司市立商業学校(当時)の卒業生名簿には「吉田雄兎」の名があるが、卒業生名簿には「死亡」と記されている。
なんと死んでいるのである。どういうこっちゃ?ただの同姓同名の可能性もあるが

吉田の著書の記述では昭和12年、満州国地籍整理局に務め、14年から中華航空上海支店に勤務したことになっている。しかし、歴史学者の上杉千年の調査では中華航空社員会で吉田を記憶する者はいなかった。
吉田によれば、15年に朝鮮の民族主義者で日本の民間人を殺害した金九を輸送した罪で逮捕され懲役2年の刑を受けたという。ただ、吉田は秦に対し、罪名はアヘン密輸にからむ「軍事物資横領罪」であることを告白している。
17年に山口県労務報国会下関支部動員部長に就いたとする吉田。済州島での慰安婦狩りも、著書で「(強制連行の)実態は私が家内にしゃべったか見せたかしたので、家内の日記の中にありました」と書くが、吉田が実際に妻と結婚したのは「慰安婦狩り」を行ったという時期の1年後のことだとされる。

これについて検証しているサイトがあったので転載
http://dogma.at.webry.info/201401/article_2.html


ちょっと今日は時間がないのでここまで

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